社革の平和闘争と三全総

―社会主義革新運動への反省・その3

内 野 壮 児

労働運動研究 昭和4912月 .62

 

平和をまもる闘争

 第二回全国総会(六二年五月)と第三回全国総会(六三年九月)の期間は、戦争と平和の問題をめぐって日本の労働者階級と人民が、さまざまな複雑な問題に直面した時期であった。

 六二年七月、モスクワで、全般的軍縮と平和のための世界大会がひらかれた。この大会には、帝国主義ブロックを構成する諸国ーアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、日本などから、かつてない多数の平和擁護者が参加したばかりでなく、 「爆弾のない世界」国際会議ーアクラ会議に代表されるアジァ、アフリカ、ラテン・アメリカ諸国の平和勢力がこれに合流した。歴史上かつてない統一の大会といわれるこの大会は「世界諸国民へのメッセージ」を圧倒的多数(賛成二一八六、反対二、棄権七)で採択し、恒久平和という共通の目標を確認し、全般・完全軍縮の実現のために全力をあげて行動することをあきらかにした。

 軍縮問題に関するソ連政府の見解を表明するために大会に出席したフルシチョフは、戦争の脅威にたいしてソ連の平和共存政策を強調し、完全軍縮のためのソ連案の主要点を説明した。また論争の焦点となっていた平和軍縮闘争と民族独立闘争との関係、階級闘争と平和運動の関係について、その見解を明らかにしたのち、世界的な規模の諸国民の反戦同盟の必要を訴えて、大会の熱狂的な歓迎を受けた。一方中国は、大会の前年十二月の世界平和評議会総会で「軍縮と民族独立のための世界大会」にせよという修正案をだし、否決されていたため、その態度が注目されていたが、茅盾を団長とする十三名の代表団を参加させ、消極的ながら賛成の態度を明らかにした。しかし大会における茅盾の発言は、中国がなおそれまでの見解を改めたのではないことを示していたのである。

 社革は『新しい路線』三六号(七月二十三日号)で大会の経過や結果を詳しく報道するとともに、その主張で、「モスクワ大会の成果をまもり原水禁世界大会を成功させよう」とよびかけた。

 だが第八回原水禁世界大会は混乱のうちに終り、原水禁運動がかつてない深刻な危機におちいったことをばくろした。

 すでに前年の七回大会いご、ソ連の核実験再開をめぐる混乱いらい原水禁運動は停滞と混迷をつづけていた。運動の再建をはかるため、原水禁運動の「基本原則」が決定されたが見るべき進展はなかった。

 大会を前に共産党の発表した方針は、核実験禁止協定や、全般的軍縮協定も、要求としてはかかげるが、これをたたかいとるためには何よりも基地闘争が必要であるというものであり、平和と全般的軍縮との闘争と民族独立のたたかいの密接な関連を強調するものであった。

 一方、社会党は、原水協の「基本原則」が社会党の積極的中立主義に一致することを強調し、この「基本原則」の精神によって大会が成功するよう努力する、原水禁運動の立場から軍縮問題の占める地位をあきらかにし、これに重点をおくべきで、植民地解放闘争に重点をおくべきではないという方針を示した。

 これらの方針の相違はモスクワ大会の成功にまなんで解決できるという希望がもたれたが、七月二十七日のアカハタの内野竹千代論文は、モスクワ大会のメッセージは「軍縮に主題をおいたためにきわめて不充分なものになった」 「日本にとっては適切なものではない」といいきって、大会の前途のただならぬことを予想させたのである。

 こうして大会の諸会議は、社共両党の論争の場となり対立的な空気を増大させた。一致点をまとめる努力は、僅かな例外をのぞいて殆どおこなわれなかった。八月五日夜、ソ連核実験のニュースはこの対立に火をつけた。六日未明、社会党、総評代表から、運営委員会に、ソ連の核実験に抗議せよという動議が提出された。動議が否決されるや、社会党、総評は役員引揚げを決定の上、六日の開会劈頭、緊急動議として提出、会場は混乱におちいってしまった。

大会宣言、決議の提案さえおこなわれず、安井大会総長の経過報告をもって閉会したのである。

 同じ六日の広島大会では別の混乱がおこった。中国五県の代表二千三百名が集ったこの大会では「広島アピール」の採択につづいて「米・ソ両国に核実験中止を要請する電報をうつこと」が採択され、つぎの議事に移ったとき、会場のあちこちから「議長!」 「議長!」と発言をもとめる声がおこり、議場は混乱した。

中華人民土ハ和国代表は演壇にかけ上り、何かを発言し始めて、混乱がはげしくなるばかり、運営委員会の大会採択手続などについての説明後、「原爆許すまじ」の合唱で大会の幕は閉じられたが、合唱の最中、共産党員、民青同盟員は「反対・反対」のシュプレヒコールをおこなった。全体の四分の一たらずの数であった。

 この原水禁運動の危機にあたって社革は『新しい路線』で事実を詳しく報道するとともに、三七号(八月十目)に「平和運動にたいする共産主義者の基本的態度」と題する主張をかかげてその態度をあきらかにした。

 主張はこの危機をみちびいた主要な責任は共産党にあるとして平和運動にたいする共産党の誤った方針を批判している。また社会党のセクト主義を批判し、政党が指導権をうばいあう争いの場となった平和運動自体の弱点を指摘して、その克服の必要を訴えている。

 主張は、今日、平和の擁護が、共産主義者の第一義的任務となっていることをあきらかにし、階級闘争と平和運動との関連を明白にして、平和運動の正しい発展を保障する責任と任務を説く。

 「社会主義の世界体制は、平和を擁護する基本的な力であるとはいえ社会主義だけで平和を守ることはできない。労働者階級は最も強力な平和勢力であっても、労働者階級の力だけで戦争を阻止することはできない。労働者階級が平和を擁護するためには、広汎な同盟者が必要である。

 帝国主義の戦争政策、軍事同盟と基地、彪大な軍備は、経済的にも政治的にも、また思想的にも多くの矛盾をその内部にうみだしている。そこから新しい層が平和を要求して立ちあがってきている。青年、婦人、知識層、宗教家、芸術家、ブルジョアジーの一部まで、平和擁護の問題は国籍や階層の別をこえ全人類的な課題となっている。

 労働者階級、とくにその前衛は、たとえこれらの人々が階級闘争における労働者の立場と一致しない場合があっても、また、社会主義と帝国主義の質的ちがいを正確にしらなくとも、その平和の熱意を積極的に評価し、これと手を結んで幅広い平和の戦線を形成し、その自主的な運動の正しい発展を保障しなければならない。いまでは、このような結集が積極的な役割をはたす時がきているのであり、そこに平和運動の新しい性格がある。」

 主張はまた、ソ連の核実験支持を平和運動に強制しようとした共産党の誤りを批判し、ソ連核実験にたいする自然発生的抗議の性格をあきらかにし、共産主義者のとるべき態度を明確にする。

 またさきにも述べた平和運動の弱点として、職場や農村の下からの運動が弱いことを指摘し、これを克服するために実生活と結びついたさまざまな平和要求にもとつく運動を、その特質に応じて発展させ、平和運動の中心課題にむけてゆくこと、平和委員会からセクト主義を一掃し、職場、農村に基礎をおく大衆的な行動組織とすることを説く。

 そして平和運動と階級闘争のちがいと関連を説明し、さまざまな思想の人との協力を説いて最後にいう。

 「日本の真の支配者をアメリカ帝国主義だと考え、民族の独立、軍事基地の撤去を第一義的課題と考える人々とも、平和擁護の立場から役に立つ具体的な行動でともにたたかう用意がある。

 しかし例えば平和擁護運動をすべて反米独立の民族解放運動の『理論』で規制し、或は『積極中立主義こそ平和の道』と主張して一定の政治的見解を運動に押しつけようとする一切の企図に反対する。

 そして、平和を脅かす実際的な危険をとりのぞき、諸民族の平和的共存と友好を進めるすべての具体的課題について協力を組織することこそ平和運動におけるわれわれ共産主義者の任務である。」

 この主張は社革の平和運動にたいする態度を定立したものとして大きな意義をもったといえよう。

 原水禁大会後、社共両党ともにその立揚を固執し、論争は泥試合の様相さえ呈してきて事実上の分裂が進行し始めた。このような事態のなかで、心ある平和活動家の間には、いつまでも論争をくりかえすのでなく行動を開始することが必要だという空気も生れた。

 社革は、九月十二日の全国常任委員会で、来年一月一日を期し、核実験停止協定を締結させることを、国連、米、ソ、日政府に要請する署名運動を展開することを決定、二十日そのよびかけを発表した。 『新しい路線』第四一号(九月二十日)はこのよびかけを掲載するとともに、核実験停止のための行動をー署名運動の提唱に当って」という主張を発表してその意義をあきらかにした。『新しい路線』にはこの署名簿が刷りこまれた。なおこの提唱には、春日庄次郎の申入れが機縁となったことも記しておかなければならない。

 社革全国常任委員会は、十二月十六目この署名運動を集約して核停協定要請書を、国連ウ・タント事務総長、ケネディ米大統領、フルシチョフ・ソ連首相、池田内閣総理大臣あて送ったが、これにそえられた文書はつぎのように述べている。

 「東京、埼玉、茨城、大阪、広島、福岡、富山などをはじめ、全国各地の平和、労働、社会団体の協力によって、それぞれの地域、経営、学校、農村などで、この運動が熱心にすすめられた。

 とくに東京、大阪、広島などでは各地域原水爆禁止協議会が、これを組織の共同活動としてとり上げ、また鳥取県倉吉市議会をはじめ、多くの地方自治体議会でも、積極的に右協定の実現を要求することが決議された。

 そして、十一月一日おこなわれた国際軍縮要求デー広島集会、十二月三、四日広島市でおこなわれた原水爆禁止と平和のための国民大会でも圧倒的多数の賛成によって、この運動を発展させることが決議され、引続いて全国的な運動として推進されていることを附記する。」

 十月下旬、カリブ海に重大な核戦争の危機が生れた。二十二日、ケネディ米大統領は、ソ連の核ミサイル供与を口実にキューバの海上交通しゃ断を声明、米艦隊を配置するとともにグワンタナム基地の兵力を増強した。社革常任員会はただちに抗議声明を発表して、アメリカ政府の封鎖無条件解除、兵力撤去を要求し、日本政府がアメリカの行為を支持することを糾弾した。情報を聞いた社革教育大支部は緊急行動をきめ、社青同、社学同などに統一行動をよびか

けるとともに、各大学社革支部とも連絡した。また慶大支部は、大学管理法反対デモの学生にアメリカ大使館への抗議行動参加をよびかけた。

 二十四日午後四時、アメリヵ大使館前には、二百三十余名の学生がよびかけに応じて集り、警官隊と対峙するなかで、抗議の叫びをあげた。

 また社革全国常任委員会と東京都委員会も代表をアメリカ大使館に送って抗議し、ケネディ声明の無条件撤回を要求した。

 フルシチョフの基地撤去によって危機が回避され、キューバの独立が擁護されたとき、 『新しい路線』四六号は、これを賢明な処置と支持して「平和擁護の闘いこそキューバの革命を防衛する」という主張をかかげて、平和擁護闘争の強化と平和戦線の統一のために奪闘することをよびかけた。

 キューバ危機に当ってソ連のとった措置にたいして中国共産党は批判的態度をとり、国際論争を燃え上がらせるきっかけとなった。中共はソ連ばかりでなくフランス、イタリア、アメリヵの諸党を修正主義として批判し、当然これにたいする反論をよびおこした。これらの論争は深刻な波紋をよび、わが国の平和運動、労働運動、社会主義運動に重大な影響を与えた。共産主義者のこれにたいする態度が問われたことはいうまでもない。

 第八回大会以後、原水禁運動の事実上の分裂が進行したことは前にも見た通りである。共産党は平和委員会を握って、十月下旬全国各地で基地行進をおこない、十一月二十―二十二日の日本平和大会を反米独立の立場からの平和大会とするため積極的に活動した。

 一方社会党・総評の幹部は、平和活動家の要請による「原水爆禁止と平和のための広島大会」をひらくことを決定した。これは積極的意義をもつとともに、共産党の指導する日本平和大会に対決するセクト的傾向をもまぬかれなかった。広島原水協を中心とする中国地方原水協は、この広島大会を日本原水協が全組織をあげて実現し、原水協の統一を守ることを要求したが、日本原水協は、社共の対立で機能をマヒし、この要求に応えられる状態ではなかった。

 この大会に積極的にとりくんだ平和活動家は、社会党など十三団体のワクを外し、各地に自主的に結集される実行委員会を組織して新しい運動の出発点となるよう努力した。広島大会は核禁協定の締結、日本非核武装宣言、破爆者の医療と生活保障確立の努力などを訴え、一定の成果をのこしたが、なお社会党系というセクト的においを克服することはできなかった。

 この大会の準備過程で、大阪ではモスクワ大会に参加した地評幹部を中心に「全般的軍縮と平和の会」が結成され、モスクワ大会の方向に従って日本の平和運動を発展させる独自の活動を展開することになった。

 このような下部の動きは日本原水協の統一と活動再開を促がした。六三年二月いらい原水協担当常任理事会は意志統一の会議を重ね、舞台裏では総評を仲介に社・共の話合いがおこなわれた。

 二月二十一日、日本原水協担当常任理事会は「いかなる国の核実験にも反対し、この地球上から核実験をなくすため、すべての核保有国による核実験停止協定を即時無条件締結させる」の条項をふくむ四項目の具体的目標をかがけて原水禁運動の統一と強化をはかり、三・一ビキニデーと第九回世界大会をめざして運動を再開することを一致して決定し、声明を発表した。

 しかしビキニデーの前日、二月二十八日、静岡市でひらかられた全国常任理事会は、共産党系理事が、前に承認した声明を保留するという態度に出たため混乱した。担当常任理事の多数が辞職を表明、焼津集会は統一してひらくことができず、原水協はまたもや分裂状態に逆もどりした。

 この惰勢のなかで、広島原水協は五月十九日、各地方原水協ブロックによびかけて会議をもち、原水協担当常任理事会の二・二一声明にもとついて統一することを提案して懇談、六月三日には全国地方原水協代表者会議をひらいて、日本原水協に強く統一を要請した。

 よく知られているように第九回原水禁世界大会はついに分裂した。八月五日、モスクワで部分核停条約が調印された日である。この大会が中ソ論争の舞台となったこともよく知られている。現地にもちこされた担当常任理事会はついに統一的な大会方針を決定できず、大会の準備執行を広島原水協に白紙委任する非常措置をとって、局面の打開をはかったが、開会総会の直前、総評、社会党は不参加を表明し、八月六目、広島原水協も、その委任を返上した。

 こうして、目本原水協はほとんど目共系の役員のみで、大会を強行した。開会総会でおこなわれた森滝基調報告は完全にふみにじられ、日共の主張がストレートに大会の決議にもりこまれた。七日、広島原水協の森滝代表と伊藤事務局長は、声明を発表して、分裂にたいする痛恨の情をのべ、森滝基調報告を基礎として再出発の方途をはかる決意を表明した。

 社革全国常任委員会は七月二十四日、「八・六原水禁世界大会の成功のためにすべての平和擁護者の力を結集しよう」 『新しい路線』六九号(七月二十五日)という長文の声明を発表して基本方針をあきらかにしていたが、西川議長、内藤事務局長、長谷川常任委員を現地に派遣、松江県委員長はじめ広島県委員会とともに、現地指導部を構成して、大会の成功のために活動した。大会は分裂に終ったが、貴重な経験を蓄積したといえよう。

 大会の分裂を報じた『新しい路線』(第七〇号)は「八・六原水爆禁止大会の教訓とわれわれの任務」という主張をかかげて、今後の活動の方向を明らかにしたのである。

第三回全国総会

 第三回全国総会は六三年九月二十二、二十三、二十四の三日間にわたって東京でひらかれた。大会には各組織を代表する代議員と評議員、八月以降支部結成のすすんだ東京、長崎等の各支部の傍聴者あわせて約百名が参加した。

 大会の主要議題となったのは政治報告草案と「社会主義日本への道と新しい党の建設」と題するテーゼ草案、及び会則改正案であった。

 このうちテーゼ草案はとくに統社同との分裂以後、われわれの組織の骨格を定立するものとして要望されていた。六三年一月常任委員会がこれについての討論要綱を発表していらい全国的な討論がおこなわれ、全国委員会の討論を経て、五月二十五日『路線』第六四号で草案が発表されていた。特別な討論誌として『討論』が発刊され、総会までに二号を発行していた。だが大会で出された意見は、さまざまであり、草案についての一致をみることは困難であった。

議長団を中心に設けられた集約委員会に全国常任委員会はテーゼ草案の撤回と簡潔な政治活動の基準を作成することを提案した。これは反対意見がなく、保留四で、総会決議として採択されたが、その全文はつぎのとおりである。

1 今日社会主義世界体制と国際労 働者階級は世界史の動向を決定する主な要因となり、資本主義の全 般的危機は新しい段階に入っている。そのなかで、日本帝国主義は復活し、その客観的諸矛盾が成熟している。

  この情勢のなかで発展してきた 戦後日本の階級闘争、労働運動と 民主主義的大衆運動の経験は、当面の闘争の性格と革命の展望をあ きらかにしている。

2 すなわち現在の日本には、社会 主義的変革を不可避とする内的諸 矛盾が成熟している。日本の社会 主義への道は、当面の平和と民主 主義のための諸闘争の発展、反独 占民主改革の闘争の前進によって 開かれる。日本における社会主義 のための闘争は高度に発達した資 本主義諸国と共通した一般的性格 をもつとともに日本独自の諸条件 から生れる特殊性をもっている。

  第一は独占資本の急速な復活と 発展の基礎となった日本特有の低 賃金構造、それを支える後進的な 経済構造の改革が反独占民主改革 の重要な課題となっていることで あり、第二は戦後の特殊条件から 生れた日米軍事同盟打破と中立の ための闘争が革命の発展過程に重 要な特殊性をあたえていることで ある。

3 そこから、われわれの政治活動 の基準は次の五点に集約される。

 第一、われわれは平和共存路線を とる。この平和共存路線は、日本 の諸条件のもとでは中立路線と不 可分にむすびついている。

 第二、憲法と民主主義を擁護し、 その内容を人民的なものに発展さ せる立場にたつ。戦後日本の民主 主義と憲法は、第二次世界大戦に おける国際労働者階級と民主主義 の勝利の成果の反映であり、労働 者階級と人民の手によって擁護さ れてきた。この民主主義をさらに 拡大し発展させ、経済の領域にも およぼし反独占的性格と人民的内 容をもつものに革新する。

第三、日本における反独占民主経済改革の闘争のとくに重要な課題は、日本の特殊な低賃金構造の打破、低所得者の一掃、都市農村の後進的な経済構造の打破である。

第四、この闘争のなかで反独占諸階層を結集して統一戦線を組織する。反独占民主政府の樹立を中心目標とするこの統一戦線は、人民戦線、第二次大戦中の反ファッショ国民戦線の歴史的継承であると同時に、現代の日本の諸条件に応じてその内容と形態を発展させねばならない。

 反独占民主政府は労働者階級の国家権力への接近の形態である。

こうして、社会主義への平和的移行の可能な条件がつくられる。

 統一戦線に参加する諸階層が闘争のなかで社会主義的方向に前進するためには、社会主義への展望を堅持する労働者階級の指導権の確保が決定的である。

第五、この展望と労働運動、社会主義運動の現状は、労働者階級の新しい前衛党の建設を必至の課題としている。
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